こんにちは。蒲田です。

入院・手術などがありまして、間が開きましたが前回書いた聖痕事例の続きです。オードリーの宗教的位置づけというのは理解し難いものだと思いますので、私もそんなに信仰について詳しいわけではないのですが、軽く説明してみましょう。

オードリーは周りの人からvictim soul(宗教的な 生贄 いけにえ)と理解されています。他の人のために苦難や痛みを一手に引き受ける人物として位置付けられているということです。オードリーが苦難を引き受けてくれているからこそ、みんなが平和な日常を送れるというわけです。

なぜ、こういった位置づけになっているのかについては、国や宗教を問わない考え方がベースにあります。それは「何も悪いことをしていないのに、不幸が降りかかるのは非合理だ」といったような考えです。ここから進んで「不幸には何らかの合理的な理由がある」と考えに到達します。

ある文化では、前世に理由を求めますし、ある文化では親や先祖の行いに理由を求めます。「生まれ変わりの時に、魂のレベルを上げるために現世の試練を設定する」なんて話もありますね。他にも「悪いことなんかしてないのに起こった悪いこと」に関する無数の解釈があると思います。細木数子の大殺界なんかも、こういうところで非常に使いやすいからこそ、流行ったわけです。

こういったように、運に左右されることですら、過度に合理的な理由(一部の人に合理的に見えるだけともいう)を求めてしまうというのは、何も宗教に関したことだけではありません。例えば経年劣化で壊れた機械であっても、そのとき使っていた人に原因があると考えたりするのもこういった傾向の一種です。いわば、人間の基本的な性質というべきものです(進化論的な説明をつけるのも面白そうですが、やめておきます)。

オードリーは不幸にも植物状態になってしまったわけですが、運が悪かったのであって誰が悪いというわけではないでしょう。しかし、結果が重大なために、「運が悪かった」では納得いかないわけです。オードリーは3歳という、罪を犯すような年齢じゃない時点で事故にあったため、オードリーに原因を求めることはできません。キリスト教では輪廻の考えはありませんから、前世に求めることもないでしょう(宗教のごった煮になっている場合があるので、キリスト教でも前世を信じている人はいるらしいですけれど)。

これはキリストの死とも同じです。罪のないはずのキリストが殺された。だから、そこには合理的な理由があるはずだ!というわけです(それまでは、宗教において神聖な存在が悪くもないのに苦しむという発想はなかったらしいです)。ということで「みんなの罪を背負って死んだのだ」と、キリストの死に「合理的」な説明をつけることになったんですね。

つまり、オードリーがvictim soulだというのは、オードリーとキリストの「役割」を同一視しているということなんです。オードリーを愛する人は、そういう理屈をつけることで無理矢理納得しているという状況でしょう。

ここに懐疑論者が踏み込んで否定してしまうという意味を考えてみると「超常現象の懐疑論者が扱うには難しい問題なんですよね。」と書いた意味がもっとよく理解してもらえるのではないでしょうか。日本だったら可能かもしれませんが、宗教に対する敬虔さを善良さと評価する国では難しいことでしょう。