源義経=チンギス・ハーン説の調査

調査・執筆:原田実


日本を代表する英雄・源義経は、兄の頼朝に追い詰められ、さらに奥州藤原氏の裏切りにあって、文治5年(1189)に平泉・衣川方面で死んだ、というのが通説だ。

中尊寺所蔵の源義経像
中尊寺所蔵の源義経像

ところが、これには異説がある。義経は死んでおらず、大陸に渡ってモンゴルの皇帝チンギス・ハーンになったというのだ。この説は次のように主張される。

源義経=チンギス・ハーン伝説

義経が生き延び、北へ北へと逃れていったことを示す伝説が岩手県・青森県・北海道の各地にある。さらに関東や東北の旧家には、義経が平泉から逃れる際の兵糧や軍資金を示す古文書が残っている。

義経はどこに逃げ延びたのか。中国の古書『金史別伝』には、義経の子が金(満洲・河北にまたがる国。1115~1234)の将軍になった、と伝える。

また、清朝編纂の『古今図書集成』の序文では清の乾隆帝(在位1735~1795)自らが、清朝は義経の子孫だ、と記している。つまり義経は北海道からさらに満洲にわたったと思われるのだ。

さらに義経は満州からモンゴルに入り、そこでチンギス・ハーンになったと考えられる。チンギス・ハーンことテムジンがモンゴル皇帝に即位したのは1206年。

平泉を脱出した義経が十数年かけてモンゴルで力を得たとすれば、年代的なつじつまは合う。

チンギス・ハーン
チンギス・ハーン

モンゴルの古い軍旗や兜の紋章には日本の笹竜胆紋に似たものがある。笹竜胆(ささりんどう)といえば清和源氏、すなわち義経の家系の家紋である。

清和源氏の旗と言えば白旗だが、チンギス・ハーンの即位式には九棹の白旗が立てられた。これはチンギス・ハーンこと義経が、自分は清和源氏であることと「九郎」であることを示したと考えられる。

義経は騎兵の機動力を生かした奇襲を得意としたが、これはチンギス・ハーンが率いたモンゴル騎兵の戦い方そのもの。

チンギス・ハーンの祖先はニルン族の流れをくむキャト族、母の名はホエルン・イケとされる。義経は「日本」「京都」の生まれで、幼いころは「池禅尼」(いけのぜんに)に命を助けられた。

チンギス・ハーンの出自に関する記録は、義経の身の上話が伝言ゲーム的に誤り伝わったものだろう。

そしてチンギス・ハーンという称号、これもまた「源義経」を音読みにしたゲン・ギ・ケイがモンゴル風に言い換えられたものだと考えられる。

チンギス・ハーンが義経であることを最初に説いたのはフランツ・ファン・シーボルト(1796~1866)の大著『日本』である。

明治時代にもこの説は一部の知識人の間で論じられていたが、大正13年(1924)、小谷部全一郎の名著『成吉思汗は源義経也』がベストセラーになることで一般にも知られるようになった。

その後も高木彬光(『成吉思汗の秘密』1958)をはじめとして多くの作家や郷土史家がこの説を書き継ぎ、今に至るも根強い人気がある。

義経ことチンギス・ハーンは1227年に世を去るが、その後もモンゴル帝国は拡大を続け、西はトルコ半島・東ヨーロッパから東は中国大陸・朝鮮半島にいたる広大な国土を支配することになる。

義経の大志は奥州の地で潰えることなく、ユーラシア大陸へと羽ばたいたのである。

伝説の真相とは

東北地方や北海道の義経北行伝説は江戸時代における判官びいきの産物と考えられる。特に北海道では松前藩がアイヌ支配のために義経伝説を利用しようとした。

もっとも北海道の義経伝説では義経が盗賊や女たらしとして伝えられているものが多い。どうやらアイヌは和人の不品行を伝えるために、松前藩から押し付けられた義経伝説を逆に利用したようだ。

こういった義経伝説で語られる年代は義経=チンギス・ハーン説と矛盾する。

たとえば、青森県八戸市に伝わる「類家稲荷大明神縁起」だと、義経が北海道を目指したのは元久2年(1205)とされる。それからわずか1年でモンゴルを支配し、チンギス・ハーンとして即位するのは不可能だろう。

伝説はあてにならないというなら、そもそも義経が北に向かったという根拠もなくなってしまう。

家系に箔をつけたい家が「古文書」を偽作したり、買ったりするのはよくあることだ。関東・東北の旧家に伝わるという義経の借用書なるものは似たような文面のものが多く、同じ業者の介在をうかがわせる。

『金史別伝』は偽系図作りで有名な沢田源内(1619~1688)がその「逸文」のみを偽作したもので実在しない書物だ。

また、『古今図書集成』序には実際には義経に関する記述はない。その記述があった、というのは日本でのみ広まった風説だ。

笹竜胆はもともと村上、宇多源氏の紋章であり、それが清和源氏と結びついたのは江戸時代の歌舞伎などの影響である。

また、笹竜胆は文字通り、笹と竜胆の花を組み合わせた絵柄だが、小谷部の著書に掲載されたモンゴルの笹竜胆紋なるものを見ても、笹はともかく竜胆に似た個所はない。

つまりそれは笹竜胆とは異質の紋章である。

紋章の比較
左が笹竜胆紋。右がモンゴル人が兜につけるという紋章
(出典:佐々木勝三、大町北造、横田正二『義経伝説の謎』勁文社)

義経の戦法とモンゴル騎兵の戦法は同じどころかまったく異質である。元寇の時、義経の戦法なら知っていたはずの鎌倉武士たちが、まったく戦法の違うモンゴル騎兵相手に悩まされたほどだ。

名前の類似や旗の数などはまったくのこじつけ、語呂合わせの類である。そもそもホエルン・イケの「イケ」はモンゴル語で「母」の意味であり、チンギス・ハーンの「ハーン」は皇帝という意味の称号だ。

池禅尼や義経の名とは無関係である。

シーボルトはたしかに日本での友人から聞いた説として、義経=チンギス・ハーン説について言及しており、しかも彼自身もこの説を検討に値するものとして深い関心を抱いていた。

ただし、シーボルトがあげる根拠はモンゴルの称号の汗(ハーン)と日本語・神(カミ)を比較する語呂合わせやチンギス・ハーンが強弓を引いたというモンゴルの伝説を日本の長弓と結び付けるといったこじつけに終始しており、彼自身も最終的な判断は保留している(藤野七穂氏のご指摘による)。

義経=チンギス・ハーン説を学問的に論破することはたやすい。

しかし、それにもかわわらず、この説が根強い人気を持ち続けた理由は文字通りの判官びいきと、島国の国民の大陸国家に対するコンプレックスとがあるのだろう。

参考資料
  • 小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』(改定普及版・炎書房、1979年)
  • 小谷部全一郎『静御前の生涯』(厚生閣書店、1930年)
  • 佐々木勝三、大町北造、横田正三『義経伝説の謎』(勁文社、1991年)
  • 須永朝彦編『書物の王国20 義経』(国書刊行会、2000年)
  • 高木浩明監修『源義経99の謎と真相』(二見書房、2004年)
  • 高木彬光『成吉思汗の秘密』(光文社・1958年、角川文庫・1973年、新装版・光文社・2005年)
  • 荒巻義雄『義経埋宝伝説殺人事件』(講談社、1985年)(文庫版改題『義経埋宝伝説の謎を追え!』徳間書店、1992年)
  • 荒巻義雄、合田一道『義経伝説推理行』(徳間書店、1993年)
  • 鹿島昇『義経=ジンギス汗新証拠』(新国民社、1987年)
  • 木村鷹太郎『希臓羅馬神話』(南洋堂、1922年)
  • 国史講習会編「成吉思汗は源義経に非ず」(雄山閣、1925年)
  • 関幸彦『源義経・伝説に生きる英雄』(清水書院、1990年)
  • 新谷行『アイヌ民族と天皇制国家』(三一書房、1977年)
  • NHK歴史発見取材班『歴史発見5』(角川書店、1993年)
  • 土井全二郎『義経伝説をつくつた男』(光入社、2005年)
  • 伊藤孝博『義経北行伝説の謎』(無明舎出版、2005年)
  • 森村宗冬『義経伝説と日本人』(平凡社、2005年)
  • 千坂げんぼう編著『ネツトワーク対談東北を語る』(本の森、1999年)
  • 斉藤利男『平泉 よみがえる中世都市』(岩波書店、1992年)
  • 御所見直好『鎌倉史話探訪』(大和書房、1990年)
  • 岡野友彦『源氏と日本国王』(講談社、2003年)