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『東日流外三郡誌』は古代東北の真の歴史を伝える古文書か?

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調査・執筆:原田実


『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)は青森県の和田家という旧家の屋根裏から戦後に発見された古文書である。その存在が広く知られるようになったのは1975年、市浦村(現在は五所川原市に併合)が村史資料編としてその一部を活字化したからである。

『東日流外三郡誌』

『東日流外三郡誌』
(出典:『徹底検証 古史古伝と偽書の謎』新人物往来社)

『東日流外三郡誌』によると、古代の津軽には先住民である山の民・アソベ族と、東の大陸(北米?)からやってきた騎馬の民・ツボケ族という仏の民族が争っていた。

そこに中国から春秋戦国の動乱を逃れた晋の王族と、神武天皇のために大和を追われたナガスネヒコの一族が加わり、アラハバキ族という混成民族が生まれた。アラハバキ族という名称は、彼らがアラハバキという神を祭っていたことに由来するが、その神の御神体こそ、一説に宇宙人を模したとも言われる、あの遮光器土偶である。

遮光器土偶

遮光器土偶
(出典:Wikipedia)

アラハバキ族は古代には大和朝廷と果敢に戦い、幾度か大和を奪還してアラハバキ族出身の天皇をたてたことさえあった。鎌倉時代に入る頃には、アラハバキ族の直系である安東氏が安東水軍といわれる船団を組織し、十三湊(十三湊)を中心に栄えた。安東水軍は、朝鮮・中国はもちろんロシア、インド、アラビアなどとも交易していた。

十三湊は、戦国時代のキリシタン伝来のはるか以前からすでにキリスト教教会が建っていたほどの国際貿易湊だった。

しかし、南朝年号の興国元年(1340)、十三湊を大津波が襲い、安東水軍は一夜にして壊滅。かくして津軽の地は衰微し、その歴史は抹殺されていった。

『東日流外三郡誌』は寛政年間(1789~1800)頃、三春藩主の縁故である秋田孝季という人物と津軽飯詰村の庄屋だった和田長三郎吉次によって編纂された。孝季は日本国内を歩いて史料を探すだけでなく、海外に渡って遠くインド、トルコにまでその足跡を残したようだ。

和田長三郎(左)と秋田孝季(右)の肖像画

和田長三郎(左)と秋田孝季(右)の肖像画。
(出典:『徹底検証 古史古伝と偽書の謎』新人物往来社)

彼らは『東日流外三郡誌』の他にも『東日流六郡誌絵巻』など多くの古文書を編纂しており、それらは「和田家文書」と総称される。現在残っている「和田家文書」のほとんどは孝季らの書いた原本ではなく、明治期頃に和田家の当主が残した写本で、いずれも同じ屋根裏から見つかったものという。

「和田家文書」には後から考古学的発見によって裏付けられた記述が数多く、その内容が真実であることは間違いないとされる。たとえば三内丸山遺跡(青森市)で1994年に発見された縄文時代の建物跡について、その建物が残っている時の姿が和田家文書にははっきり記録されていたという。

「和田家文書」については発見者の和田喜八郎(1999年逝去)が書いた偽書という指摘もあるが、あの膨大な古文書はとても一人で偽作できる量ではないとされる。また、偽作論者が「和田家文書」と筆跡が同じだとして持ち出した筆跡見本は喜八郎のものではなく、その娘のものだったという反論がある。サンプルの確認さえ怠るような筆跡鑑定など信頼できるものではないというのだ。

また、無学な農夫だった喜八郎に古文書偽作などという高度な知的作業ができるわけがないともいわれる。

さらに2006年11月、喜八郎の遺品の中から、『東日流外三郡誌』の寛政原本が新たに発見された。これにより偽書説は完全に粉砕されたと主張されている。

そもそも『東日流外三郡誌』はれっきとした自治体が資料として出版したものだったわけで、そのことからもこの古文書の真実性がうかがえるという。NHKはかつて『東日流外三郡誌』に基づくドキュメンタリ番組を作ったことがある。また、『朝日新聞』は寛政原本発見以前に『東日流外三郡誌』の偽書説が否定されたことを大きく報じている。(1997年10月27日・青森版)

 

『東日流外三郡誌』の真相

まず、和田喜八郎の家が地元の旧家だったという事実はない。飯詰村の庄屋の姓は「和田」ではなかった。また、和田喜八郎の家は昭和期に建てられたもので、それ以前の古文書が隠されていたはずはない。さらに、戦後に新建材の天井板を張る以前には天井裏そのものもなかった。(※1)

※1 2003年に当時の家主と東奥日報記者立会いのもとに行われた調査でもその家に古文書を隠せるようなスペースそのものがなかったことが確認されている。

「和田家文書」には1930年発見の冥王星が出てきたり、「民活」「闘魂」など江戸時代どころか明治期にもないような用語が頻出したりする。寛政年間頃成立の文献でこんなことはありえないし、明治期の書写(及び加筆)を認めたとしても、説明がつかない。

1991年から93年にかけて国立歴史民俗博物館が行った十三湊遺跡の総合調査では、14世紀の大津波の痕跡や安東水軍の実在を示す証拠は一切見つからなかった。

また、その調査で、貿易港としての十三湊は13世紀半ばに開かれ、その繁栄がピークを迎えたのは14世紀半ばから15世紀初めであることが判明した。つまり十三湊が鎌倉時代以前に開かれて14世紀半ばに滅んだという『東日流外三郡誌』の主張は実情とまったく合っていなかったのである。

「和田家文書」に考古学的発見と一致する記述があるというのは事実だが、その「古文書」が出てきたという時期を見ると、それは常にマスコミがその発見を大きく報じて以降である。喜八郎は自分が見た新聞・雑誌・テレビ番組・書籍などを片っぱしから「和田家文書」の材料として用いていたようである。

三内丸山遺跡の建物にいたっては当時の雑誌などに掲載された復元想像図とそっくりで、実情を知る人の失笑さえ買った。遮光器土偶がアラハバキ神の御神体にされたのも、『東日流外三郡誌』が世に出た70年代当時、超古代史ブーム、UFOブームで土偶宇宙人説が話題になったためと考えられる。

秋田孝季と和田長三郎吉次に関する記録は「和田家文書」以外には一切存在しない。三春藩・津軽藩の記録にも飯詰の庄屋文書にも彼らの実在を裏付ける記述はない。また、「和田家文書」に見られる彼らの事績は矛盾だらけで、その生没年さえあやふやである。

そもそも日本人の海外渡航が禁じられていた時代に、孝季が中近東まで行って無事帰ってきたという話自体、眉に唾をつけなければならない。彼らは「和田家文書」の成立を説明するための架空の人物と見てよいだろう。

和田喜八郎は「無学」でもなければ「農夫」でもなかった。彼は20代の頃から地元の郷土史家の手伝いをして史料を探していた(実際には自分で「史料」を作って提供していたようだ)。彼は終世、スポンサーの求めに応じて「古文書」を貸し出し、あるいはそれをタネにした埋蔵金詐欺を行うことで現金収入を得ていた。

つまり、喜八郎は物心ついて以来、晩年まで「古文書」作成に携わっていたわけで、それがつもりつもって膨大な量になっただけである。それに「和田家文書」の嵩の大きさは、それが屋根裏に隠されていたという由来譚をかえって否定するものだ。

『東日流外三郡誌』が有名になって以降、喜八郎は古代史に関する著書を出しているし、しばしば講演会の演者に招かれることもあった。その書籍や談話の内容は、喜八郎に「和田家文書」を書けるだけの知識と文才があったことを示している。

「和田家文書」偽作の証拠とされた筆跡サンプルについて、信奉者が喜八郎本人に、それが娘の字である旨の書き込みを入れてもらい、雑誌に掲載した、という事実はある。ところが、その書き込みの筆跡というのが、肝心のサンプルと同じだったのである。信奉者はかえって、そのサンプルが喜八郎本人のものであることを自分たちで証する形になった。

「和田家文書」の筆跡は明らかに喜八郎のものと一致する。さらに新発見の「寛政原本」なるものもその筆跡は喜八郎と同じなのである。むしろ不思議なのは、それを「発見」した人がなぜそれを江戸時代のものと思ってしまったかである。

「和田家文書」は文字通り、根も葉もない偽書だった。その来歴からして虚偽である以上、古代史に関する個所など、特定の部分だけは信頼できるということもありえない。

市浦村が『東日流外三郡誌』を刊行した際にその編纂を行った郷土史家は、後にそれが偽書だったことを認めている。NHKのドキュメンタリ―番組を作ったプロデューサーは2006年3月に『東日流外三郡誌』を偽書と気付かずに宣伝した不明を詫びる手記を発表している。朝日新聞青森版の偽書説否定記事については、1998年3月10日付で訂正記事が出されている。

『東日流外三郡誌』が残した教訓の一つは、公機関の発表や大手マスコミの報道だからといって必ずしも信用できない、ということだろう。

 

参考資料

  • 原田実『トンデモ日本史の真相』(文芸社)
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