いまどきの若い者は問題

若島です。お久しぶりです。体調壊してましたが復旧しました。

さて、今回は人間の持つ認知的偏向のなかでもとりわけ伝統的なものについて調べた小ネタで、ずばり「最近の若者はけしからん」の話です。いや本当に「最近の若い者は~」というのは歴史がありまして、まず実例を見てみましょう。

10世紀日本―平安中期の女流歌人、清少納言は嘆きました。

「~なに事を言ひても、そのことさせんとす、いはんとす、なにせんとす、といふ文字を失ひて、ただ、いはむずる、里へいでんずる、など言へば、やがていとわろし」

-現代語訳-
「(最近の若い者は、あまりに言葉が乱れており嘆かわしい)何から何まで”むずる語”を使うが、とてもみっともないことだ」『枕草子』清少納言 ※若島意訳あり注意

何を言ってるかというと

 最近の連中ときたら「言はんす」という正しい言い回しをせず、「」を省略して「言はむずる」といいやがる。

という意味合い。さらにはもっと前、紀元前4世紀、清少納言より遡ること1300年、かの大哲学者プラトン先生もまた、似たように嘆いています。

「What is happening to our young people? They disrespect their elders, they disobey their parents. They ignore the law. They riot in the streets inflamed with wild notions. Their morals are decaying. What is to become of them?」

-日本語訳-
「最近の若い者はなんなんだ?餓鬼のくせに年長者を敬わず、両親に反抗する。法律は守らない。ストリートギャング気取りで大暴れときたもんだ。連中の道徳心は腐れきっている。このままだと、いったいどうなってしまう」『Politeia』plato ※若島意訳あり注意

さらにはヒッタイトの遺物、エジプトの壁画から現代の居酒屋まで、いつでもどこでも散見されるし、恐らくは歴史上、さまざまな地域、時代、文化で、自然発生する愚痴なのであろうことは想像に難しくありませんね。

私は確信しています。かつてアフリカの大地で、枝を片手に狩りのプランを説明している年長者が「最近の若い者はなっとらん、足跡の区別もろくにできん」と嘆いていたであろうことを!

そう、いつの世も、倫理や文化が変わろうとも、集団生活が世代を重ねるほどに安定し、そこそこの時間が経過したならば、宗教や神話が生まれるのと同じくらい頻繁に、いつか年長者が「最近の若いものは云々」と嘆くのでしょう。

さて、「最近の若い者は~」というのは、実際のところ「昔はよかった」の系統や、「TVばかりみていると~」「マンガの悪影響が~」「ゲーム感覚で~」「インターネットが世界の全てだと~」といった論調のうち、「もっともらしく感じる人には感じるけれども実は無意味であるか誤り」な誤った主張と同種といえそうです。(もちろん「少年犯罪の増加(本当は増加していない)」や「言葉の乱れ」などに対して「ゲームの悪影響だ」と言ってみたり、ただ「嘆かわしい」という価値判断をするだけといった具合に、パターンや力点の違いはありますが)

そういうわけですが、続きまして、マンガ有害論やゲーム脳に連なる系譜の過去事例も紹介しましょう。

これ、私は「反社会学講座」で知ったんですが、19世紀フランスの話で、凄いのがあります。当時のフランスは、大衆全体の識字率があがりつつ、小説類が普及していく第一段階でありました。

そんな状況でのことです・・・

「連載小説が女の脳味噌にとって、男の脳味噌に対するアルコールと同じ、しかもおそらくもっと深刻な破壊を起こすのだと確信しない者はいない」『レジャーの誕生』著:Alain Corbin 訳:渡辺 響子 より

エクセレント!これぞ「恋愛小説脳の恐怖」としかいいようがないですね。「最近の女中は仕事をサボって、空想にふけっている。これは恋愛小説が~」というノリです。面白いですね。

でも、上には上がいて、まだ凄いのがあります。これがとっておき。これはたまたまwebで拾ったのですが・・・

明治時代には「ゲーム脳の恐怖」ならぬ「野球脳の恐怖」が存在した!

なんか凄いでしょう? ちょっとみてみましょう。えー、このサイトによると『戦後野球マンガ史:手塚治虫のいない風景』からの引用とあります。私は未読なので、孫引きですがご容赦ください。

「明治四三、四年頃には、「東京朝日新聞」などを中心に野球撲滅論が起こっている。「教育と野球」(野村浩一、私家版)から引くと、「野球はアメリカから来た賎戯で士君の弄ぶべきものではない。我が国には胆を練るには剣道があり柔道があり、また国技として相撲がある。どうして外来の遊戯を学ぶ必要があろうか」というのが大勢だった。五千円札に肖像が描かれている当時の一高校長新渡戸稲造は、「野球という遊戯は悪く云えば巾着切(すり)の遊戯、相手をペテンにかけよう、計画に陥れよう、塁を盗もうなど、眼を四方八方に配り、神経を鋭くしてやる遊戯である」と語っている。」

「(中略)野球選手が学科の出来ぬのは、野球に熱中の余り勉強を怠るのかと思ったら、そうでなく、手が強い球を受ける為その震動が脳に伝わって、柔らかい学生の脳を刺激し、脳の作用を遅鈍ならしめる異常を呈せる」

・・・すみません、面白すぎて涙でました。

「手が強い球を受ける為その震動が脳に伝わって、柔らかい学生の脳を刺激し、脳の作用を遅鈍ならしめる異常を呈せる」

凄い。野球脳ですよコレ!(゜o ゜)ポカーンとしてしまいますね。

ただ、「むずる語がいとわろし」も「恋愛小説脳」も「野球脳」も「ゲーム脳」も、いま、このように遠くから客観的に評価すれば、笑える話ですけど、もしかしたら自分たちも、同じことをしてしまう危険は常にあるということを自覚する必要はあるかも。

野球脳までいくと遥か天空まで飛びすぎですが、注意深く身の周りを観察すれば、たぶん学校のクラブ活動から日常の職場まで、普通に存在しているはずです。

これ、認知的錯誤やメカニズム、進化論と絡めた必然的な認知の偏向として、かなり面白い話に繋がるのですが、解説は別の機会にしておきます。

つづく かも?

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  1. 戦後野球マンガ史―手塚治虫のいない風景

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