こんにちは。蒲田です。

前回は錯視の話をさせていただきました。普通ならここで「そうそう人間の認識はあてにならない場合もあるよね。」「だから過信は禁物。懐疑の心を持たなくちゃ。」と懐疑論を推奨して落ちつくのがまとまりの良い話かもしれません。

でも、もうちょっと入り込んでも面白いかもしれませんよ。懐疑とかの話で錯視がでてくると、どうしても「人間は非合理だから」という話になりがちですよね。でも、本当に非合理なことなのでしょうか?実は、錯視は単に「騙されている」というわけではないのです。

様々な錯視が起こる仕組み(錯視のメカニズム)は、はっきりと解明されているわけではありませんが、錯視が起こる根本的な原因は分かってきています。心理学では認知(身の回りの世界を認識するということ)の「ヒューリスティック」な処理に原因があると言われています。

人間はなんでもかんでも合理的にきちんと計算して情報処理しているわけではなく、膨大な情報の中から無意識に(直感的と言ってもいいかもしれません)必要だと思われる情報だけを取り出して、手を抜いた計算で済ませています。これが、心理学で言う「ヒューリスティック」な情報処理です。人間らしい情報処理ということですね。

こういった手抜きをしないと、身の回りにあふれる情報の波に打ちのめされて、簡単な決定をする場合でも膨大な時間を必要としてしまったり(脳を損傷した患者の研究として、実際に確かめられています)、何も決められなくなったりしてしまうのです。

つまり錯視の原因となっているヒューリスティックな情報処理は、単なる間違いではなく、たまにうまくいかないけれど、人間にとってはとても役に立つ、絶対に必要な機能だというわけです。

しかも、今回の錯視のようなものは、殆どの人が同じように持っている基本機能なんですね。だから誰もが同じように見えるんです(人間に限らず、サルやハトにも同じ錯視があるという研究もあります。サルやハトにとっても必要なんですね)。

生きていくためとか、何かを決められるようにするためといったように見方を変えると、ある意味とても合理的と言える処理なんですね。面白いと思いませんか?