よくある質問と回答(FAQ)
- 懐疑論者って、ぶっちゃけ否定派でしょう?
- もし懐疑論者達が否定していた主張が、後に真実だと判明した場合はどうするの?
- 証明されたら認めるですって?いやはや信念がないというか・・・
- 懐疑論者にはロマンがない。夢がない。貴方はロマンが判らないだけじゃないの?
- 懐疑論者は頭が固く頑迷だ。もっと柔軟になれないのだろうか?
- 懐疑論者とは、嘲笑したり、無駄に攻撃的な人のことを指すのですよね?
- 科学は万能じゃないんですよ?
- もちろん懐疑論者は懐疑主義にも懐疑的ですよね?
- 超能力や「水からの伝言」は、いまの科学では解明できないだけでしょ?
- 科学も宗教も神秘主義もひとつの視点であり、科学だけ特別扱いするのは、あなたの偏見にすぎないのでは?
- パスツールやウェゲナーも笑われた。懐疑論者は同じ過ちを繰り返している。
懐疑論者って、ぶっちゃけ否定派でしょう?
いいえ違います。一般に否定派という場合、「あるわけないからあるわけない」といったような、否定的な決め付けを行う人*1や、知らない話題にも否定的な声明を発してしまう人*2を指すべきだと思います。そして、その意味でいえば、懐疑論者は否定派ではありません。
懐疑論者と否定派の最大の違いの一つは、非合理な否定論に対して寛容な傾向を持つか、結論が同じであろうとも、批判的であるか、という部分にあるかもしれません。懐疑論者は、非合理な否定論も批判する場合*3があります。
現代の懐疑論者は、超常現象や擬似科学周辺の話題に対しては、否定的な結論になることが多いかもしれません。しかし、その理由は、懐疑的に検討する話題の多くが、直観的におかしいぞと感じる(懐疑主義アラームが鳴る)主張が対象であり、こういった領域の話題に強い興味を抱いてきた懐疑論者の直観は、足跡とフンから獲物の体力や現在の居場所を推測できる、狩猟民族のそれと同じ程度に優れているからかもしれません。
さらにいえば、懐疑論者は、それほど自信のある自分の直観ですら、誤っている可能性を考慮しながら、検討の対象がどのように誤っているのか、あるいはグレーにおいておける余地があるのかを調べます。そのうえで、修正可能な暫定的結論に達します。
もちろん、私たちも人間であり、完璧ではありませんから、偏見や思い込みを持っていて、根拠が示すよりも強く否定するなどといった態度をとることがあるかもしれません。しかし、私たちは自分が偏見や思い込みを持っていることを自覚しています。そして、そのような問題を検出し、自己修正することもまた、重要で価値のあることだと考えています。
もし、私たちが否定派でないことを確かめたいと思うのでしたら、懐疑論者と、強力な否定論をぶっている否定派ないし自称懐疑論者に対して、それぞれ独立に超常現象や擬似科学領域に関する質問をしてみるのもよいでしょう。その結果、否定派と懐疑論者は同じ結論を出すかもしれませんが、その根拠については、懐疑論者の方が、より詳しい情報や、クリティカルシンキングに基づいた議論を提出する可能性が高いと思います。
ただし、懐疑論者が、本人の直観くらいしか根拠がない場合、問われても、はっきりとした答えが得られないかもしれません。懐疑論者は、必ずしも否定や肯定を目的としているわけではありませんから、結論を保留することを悪いことだとは考えていません。事実に対して誠実な態度をとることが尊いことだと考えています。
- *1
強い否定論。大槻義彦教授などはここに分類されます。海外では、スティーブン・ワインバーグやフィリップ・アンダーソンが、このような否定論を使っているようです。 - *2
「おかしなことを信じているのはいけない」といったような啓蒙主義的な信念が理由かもしれませんし、戦略的(政治的)な理由かもしれません。 - *3
カール・セーガンもこういった否定論に対して批判的な意見を述べています。また、クリティカル・シンキングという考え方からも、強い否定論の非合理さは批判されます(『クリティカルシンキング 不思議現象篇』T・シック・ジュニア, L・ヴォーン著の「原理的に可能」と「論理的可能」の項目を参照)。
もし懐疑論者達が否定していた主張が、後に真実だと判明した場合はどうするの?
懐疑論者の多くが決着済みだと考えていた話題に、それを覆す重要な真実が含まれていたのならば、再検討したうえで、それを認めるでしょう。
懐疑論者は、ジェイムズ・ランディの金言「人は、社会的地位と年齢が高くなるほど、”判りません”と”間違えました”がいえなくなる」を戒めとしていますし、誤りであれば誤りに気がつけるほうがよい、という価値観を持っています。懐疑論者にとって、面子や感情はあまり重要ではありません。
なお、懐疑論者は、個別の事例を否定することはあっても、一般化した現象全体までは否定しない傾向にあります*4。たとえば「ユリ・ゲラーのパフォーマンスは未知の相互作用によるものではない」とか「100匹目のサル現象はウソである」と結論することはありますが、だからといって「微小なレベルですら、精神が外界と相互作用することなどありえない」とか「けっして魔法は存在しない」などとはいいません。
ともあれ、懐疑論者による否定的な結論が、実は誤りであったということが確実になったとしたら、懐疑論者は喜んで結論を改めるでしょう。
異星人が、しょっちゅう墜落しながら地球にやってきていたとか(物理学から生物学までお宝たっぷりだろう)、超古代に核戦争が起きていたとか、人間の精神が重力を遮断できるということが判ったならば、それはもう特殊相対性理論による時間の遅れや、DNAの二重螺旋などと同じように、我々の知的好奇心をおおいに刺激することになるでしょうから!
要するに、懐疑論者が何かを否定するということの意味は、ニセモノを排除するということであって、今までの常識を覆すようなものは何も認めないといったような、やりすぎた保守主義ではありませんし、異端的な科学を排除することでもありません。私たちは、小さい期待ながらも、超常現象の実在が証明されることを期待しています。
- *4
この部分については、懐疑論者によって認識が違う場合もありますが、少なくとも我々ASIOSは、カール・セーガンやドーキンスに代表されるような、世俗的ヒューマニズム(Secular Humanism)と密接な関係にある懐疑主義であり、この意味で独断論的な否定論は採用していません。
証明されたら認めるですって?いやはや信念がないというか・・・
いいえ。私たちには信念があります。懐疑論者は、誤りを認めずに事実を捻じ曲げてまで面子を保つようなまねや、自分の確信に疑いを挟む主張から目を逸らすようなことはしません。
もし、自分達の教義に疑問を生じさせるような主張を封じることによって教義を守るような宗教的方法のことを「信念がある態度」というならば、懐疑論者は大急ぎで、かつ誇りをもって、我々には信念がない!と主張するでしょう。
それはさておき私たちの信念は、事実に対して誠実であろうとする知的な倫理観*5とともにあります。
懐疑主義という立場は、確固不動の教義や絶対真を放棄していますが、そのことから「なんでもかまわない」という安易な相対主義*6には逃げ込みません。結論を未来永劫保留するべきだというような、哲学史上の懐疑主義や、不可知論者でもありません。
懐疑論者にとって、「誤りであれば修正する」という価値観は、より確からしい知識を蓄える努力をしたうえでもなお、どこかに誤りがあるかもしれないという可能性を受け入れるという態度と不可分なのです。
反証不能を足場とする陰謀論者が懐疑論者を自称したとしても、自分の誤りを受け入れることを拒否し、確からしい知識を蓄える努力に不備があるという理由で、懐疑主義的ではありません。懐疑主義は、知識に対しての厳しい基準を設けたうえで、それでもさらに謙虚さを抱くことに他なりません。
人間は様々な間違いを犯す性質を持っています。懐疑論者は間違わないように努力しますが、常に間違ってしまう可能性を持っていますし、それを自覚しています。だからこそ、「自分の誤りがわかれば修正する」ことが絶対に必要だと考えています。それは、懐疑論者にとって、事実に対する誠実さであり、信念なのです。
懐疑論者にはロマンがない。夢がない。貴方はロマンが判らないだけじゃないの?
私たちは、そこに真実への期待があってこそ、初めて真のロマン足りえると考えています。つまり、でっち上げられた話や、既に普通の説明がつくことがわかっている超常現象に、夢やロマンを求めていないだけです。
懐疑論者はこんな感じで夢やロマンがないという苦情を受けることがあります。
「私はピリ・レイス地図にロマンを感じていた。ところが懐疑論者はピリ・レイスの南極地図を見ても、疑うことや、否定することしかできない。なんて偏狭で頑迷な連中なんだろう。こいつらは、夢もロマンもない哀れな連中なのさ。私はロマンがある方がいいと思うんだ。」
事実とは無関係、つまりフィクションでいいのならば、超常現象よりも、遥かに優れた物語などがあるのではないでしょうか。懐疑論者にはロマンや夢がないと言う人でも、実際のところは真実への期待があるからこそ、超常現象に夢やロマンを感じているのではないかと思います。
その真実への期待をくじかれたときに、夢やロマンがないと言っているのではないでしょうか。このとき、夢やロマンがないと指摘する人は、何を大事にしているのでしょうか。事実に耳をふさいでいるのではないでしょうか。それは夢やロマンを持った行動でしょうか?
私たちは、夢やロマンを感じる本物を探しています。そのために「本物探しはニセモノの排除から」だと考えています。みなさんも、大量の石の中にひとつの宝石を探すのならば、まずは石をひとつひとつ確かめながら取り除いていくのではないでしょうか。たんなる石を取り除いたからといって、決して「宝石探しのロマンがわからないヤツだ」などと言わないはずです。
懐疑論者は頭が固く頑迷だ。もっと柔軟になれないのだろうか?
「頭が柔軟であること」が根拠もなく信じることなのであれば、私たちは確かに頑迷かもしれません。しかし、どんな証拠があっても、信じ続けて譲らないことは、私たちの姿勢よりも頭の固いことではないでしょうか。
例えば、ロズウェル事件関係でとても有名なMJ-12文書は、様々な根拠を元にニセ文書だと判明しています(参考:マジェスティック12 - Myth of Roswell Incident -)。しかし、それでもなおMJ-12文書が本物の文書だと信じ続けることは、とても頑迷なことではないでしょうか。
このような明確な例だけではなく、もっと微妙な例も上げましょう。例えば超心理学では非常に厳密な実験が行われるようになっています。その実験から、懐疑論者は「マクロPKはありそうにないが、ミクロPKについて更なる実験を続けることには合理的な根拠がある」といったような考えをもっていたりします。多くの否定派のようにマクロもミクロも区別せず「超能力などない(ありえない)」などということは言いませんし、肯定派のように、マクロPKもミクロPKも実証されたと断言することもありません。
このような態度は頑迷ではなく、肯定派や否定派よりも柔軟だと考えています。
懐疑論者とは、嘲笑したり、無駄に攻撃的な人のことを指すのですよね?
いいえ、違います。懐疑論者を自称する人の中に、嘲笑や攻撃のためだけに発言しているように見える人が居ることは知っていますが、そのことは非常に残念なことだと思います。
私たちは、単なる嘲笑や攻撃にしか見えない発言を繰り返しているだけの自称懐疑論者に対して批判的です。懐疑論者ならば、批判する対象について詳しく調べるのが当たり前だと思いますし、そういった根拠を提示した上で合理的批判をすべきだと考えています。
嘲笑的だったり攻撃的だったりする人も懐疑論者を名乗っていることによって、私たちの根拠に基づいた批判が、内容とは無関係に嘲笑や攻撃だと受け取られてしまうこともあります。こういったことが起こるのは非常に残念ですし、歯がゆいことです。
私たちも、稀に嘲笑的だったり攻撃的だったりすることがあるかもしれません。それは望ましいことではないと考えていますが、その嘲笑や攻撃の理由となる合理的根拠を示しているかどうかだけは、しっかり見て欲しいと思います。
科学は万能じゃないんですよ?
もちろん、私たちも科学が万能でないことをよく知っています。それでも科学的方法を使って真相に近づこうとするのは、今のところ真相を追うのに最も適した手段が科学的方法だからです。
懐疑主義者は科学的方法を使って問題の真相に近づこうと努力します。それは、科学を万能だと思っていたり妄信しているからという理由ではなく、科学的方法がうまくいくことを経験的に知っているからです。最もわかりやすい例は「予言」かもしれません。科学が導いた理論は100年後の火星の位置だってかなり正確に予言できます。
もしかしたら、あなたは「科学理論の予言が当たることは、何の不思議もない当たり前のことでしかない」と考えるかもしれません。自然の法則に合うように科学理論が作られているからです。私たちは、その当たり前さを貴重なものだと考えているのです。科学理論の他にそのような非常に優れた「当たり前に当たる」予言のできる体系はあるでしょうか?
科学は完璧には程遠いかもしれません。しかし、私たちが使う方法の中で、最も物事の真相を知ることに成功している、そして成功したことが確認されている方法なのです。私たちは今のところ科学以外の方法で真相を追究するということ自体を、想像することもうまくできません。
それを踏まえた上で、科学よりも優れた方法があるのならば、私たちはその方法を使うことをためらいません。私たちの拘りは事実に対してであって、科学という方法に対してではないからです。
もちろん懐疑論者は懐疑主義にも懐疑的ですよね?
私たちは哲学的懐疑主義の立場をとっているわけではありません。自分の足元を確かめるために懐疑主義とは何か?といったことについて熟考することはありますが、それは懐疑主義を疑うこととは違います。懐疑論者はなんでも無差別に疑うわけではありません。
私たちは非の打ち所のない究極的な真実をもてるとは考えていませんし、もしそのような知識を手に入れたとしても、それを究極的な真実だと気付くことはできないと考えているので、哲学的な懐疑主義と似た考え方を持っているともいえます。ただ、そういった考え方が真実だとしても、そういった悟りが現実的な問題の解決に役立つとは考えていません。むしろ、それは問題の解決から永遠に目をそらすことだと考えています。
私たちは、十分な根拠があるか?非合理ではないか?など様々な判断基準をもとに、「確からしさ」が低い事例を取り除き、「確からしさ」の高い事例を採用するといった方法を積み上げることで、真実に少しづつでも近づくことができると考えています。疑うことを目的としているわけではなく、根拠に基づいた正当な評価を目的としているのです。
超能力や「水からの伝言」のような話は、いまの科学では解明できないだけでしょ?
いいえ。超能力については、ミクロPKのような科学的に調査されている話があります。「水からの伝言」のような話は科学で解明できないわけではなく、科学的手法で検討する段階にも達していないのです。
はじめに、超能力と「水からの伝言」は、科学の側から見ても全く違う性質を持っているということを言わなければなりません。そのため、それぞれに別々の説明が必要です。
最終的に超能力の存在が科学的に実証される可能性はあまり高くないかもしれませんが、きちんとした科学の手順を踏んだ存在の確認実験が行われています。これは、「もし超能力が存在するのならば科学で解明できる」という前提があるからこそ続けられている実験なのです。超能力を対象とした研究は「超心理学」という分野になりますが、超心理学を真面目にやっている人たちは、超能力が科学で解明できないとは考えていないでしょう。
「水からの伝言」については、本当に「水からの伝言」が主張するような作用があるのならば、科学の実験でそれを確かめることが出来ます。「水からの伝言」は、実験のようなものを行っていて、科学のように見えるかもしれませんが、科学の視点で見るとまるで実験とは呼べないようなことしかやっていません。科学で解明できないのではなく、科学の土俵に上がっていないのです。(但し、「水からの伝言」が主張するような作用がもし存在するのならば、通常の水の実験が現在ほど再現性高くうまくいくことは考えにくいと言えます。)
このような各論はありますが、この質問で最も重要なのは「科学での解明」とは何か?ということについてだと思います。私たちは、あなたがどういった意味で「いまの科学では解明できない」と言っているのか分からないのです。その内容によって返答は変わってくると考えられます。
科学での解明には何段もの段階があると考えられます。ここでは、仮に四段に分けて考えてみましょう。第一段階は「現象の確認」です。ここでは、主張されているような現象が、本当に有るのか無いのかを確認します。第二段階は「原因と現象の関係の確認」です。ここでは、主張されている原因が主張されている現象と、共変関係に有るかを確認します。第三段階は「因果関係の確認」です。本当に原因と結果の間には因果関係が存在するのかを確認します。第四段階は「メカニズムの解明」です。その因果関係がどのような仕組みによって起こっているかを確認します。
超常現象について考えてみると、第一段階に脱落するのは、「実はそんなことは起こっていなかった」という例です。実際に超常現象の話では、話はあるのだがそのような現象など起こっていなかったという例がいくつもあります。誰かが作った怪談話なんかが当てはまります。
第二段階で脱落するのは、「別に何もしなくても現象が確認できた。現象だけでは何も不思議ではない。」などといった場合です。例えば、念を送ると雲を消すことが出来るという主張などは、このような結論になりました。
第三段階で脱落するのは、「全く違う原因が現象の正体だった」という場合です。例えば、ポルターガイストだと思っていた現象の原因が、近所の工事現場で起こった振動に家が共振してしまっただけだった等の場合です。
第三段階をクリアするのは意外に難しいことですが、ここまでクリアできると、基本的には超常現象が認められることになると思います。例外的に第四段階で、実は第三段階をクリアしていなかったことが判明する場合もあります。
さて、このように科学における解明とはどういうものかというのを想像した上で、「科学では解明できない」というのが、どのような理由で解明できないのかを考えて欲しいのです。科学的に検討されていない状態と、科学的に解明できない状態は、はっきり分けて考えなければいけません。
科学も宗教も神秘主義もひとつの視点であり、科学だけ特別扱いするのは、あなたの偏見にすぎないのでは?
科学もひとつの視点であるということ自体は、確かにその通りだと思います。私たちが科学を用いるのは、それが真相の探求に適しているからです。宗教や神秘主義は、客観的事実を知るという目的には適していない方法だと考えているだけのことです。
私たちが真相の探求に科学という方法を選ぶ理由については「Q.科学は万能じゃないんですよ?」も参考にしてください。
はじめに、「宗教」と一口にいってもその考え方は様々であり、宗教という一言で表現された場合、それが何を意味するのかは、非常に難しい問題です。あなたが宗教に対して持っている認識を知らない限り、適切な答えを出せそうにありません。ここでは、それを踏まえた上で一般論の話をします。
宗教も神秘主義も、もともとは自然の本当の姿を追い求めていたのではないかと考えています。そういった意味で、科学と同じ目的をもっていたとも言えるかもしれません。しかし、宗教や神秘主義は人間の感じたことや、考えたこと、信じていること、そして人間の在りようなどを大事にしてしまったために、客観的事実を探求するための方法としては、不利な性質を持ってしまったと言わざるをえません。
対して科学は人間の幸福感や救いなどをひとまず脇に置いておき、客観的事実の探求に特化しました。そのために科学は、事実を見極めるのに適した方法になったのです。
事実を追い求めるときに、科学を特別扱いするのは、適材適所の考え方と言えるのではないでしょうか。
パスツールやウェゲナーも笑われた。懐疑論者は同じ過ちを繰り返している。
笑われたことだけで何かを判断しようと思ってもそれは無理です。過去に笑われた仮説の殆どは間違いだったのです。また、歴史の中で笑われた人の言っていたことが正しかったことがあったという話と、あなたの主張が正しいかの間に関係はありません。問題はあなたの主張の根拠がどのくらい確からしいかということです。主張の根拠を合理的に否定されたのならば、根拠が不十分だったのです。
笑いに関しては、懐疑論者の間でも人それぞれに色々な考え方があり、その人の性格が大きく出るところだと思います。単に愉快なときだけ笑う人もいれば、戦術的な色合いを持つ笑いや、嘲笑などもあるでしょう。
例えば、ニャントロ星人の話のように「五千円札の「五」は、ニャントロ星人がストレートとフックで日本人を痛めつけているところを様式化したものだ」などといった話は、懐疑論者に限らず、まさに愉快で笑ってしまう例と言えるでしょう。このような場合は質問の内容に関係しないかもしれませんね。
お笑いのノリで、疑似科学にツッコミを入れるなどの笑いは、時に詳細な調査研究のレポートよりも、非合理批判として大きな成果を上げることがあります。そういった視点から笑いを使っている懐疑論者もいるかもしれません。批判される側としては、笑いは気に入らないかもしれませんが、批判や否定の根拠に目を向けて、その点について議論をすればいいのではないでしょうか。嘲笑についても褒められるようなことではないと思いますが、同じように批判や否定の根拠に目を向けるべきでしょう。「懐疑論者が過ちを繰り返している」かどうかは、主張の根拠が主題なのですから。
「懐疑論者が過ちを繰り返している」という主張をしたい場合は、過去の偉人の例に目を向けるのではなく、自分の主張の根拠がどれだけ確からしいかということに目を向けて欲しいと思います。あなたの主張の根拠が十分考慮に値するものであると証明できたとき、それでもあなたを笑う懐疑論者が笑われることになるでしょう。
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